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若槻環濠集落

若槻町。昭和50年10月2日市指定文化財(史跡)。若槻庄は平安末期から現代に至まで、その形、地割がそのまま残っていて、荘園の集落の周囲をかこむ環濠は、その造成経過を解明することのできる数少ないものである。徳治2年(1307)の「大乗院領若槻庄土帳」によれば、若槻はまだ集落の形態をなしておらず、いわゆる散居村で三条一里二二坪に宮地(氏神神宮寺)、三条一里三四坪に庄屋屋敷のあることが記されているが、堀は存在していなかった。その後、文正元年(1466)の「文正土帳」には庄屋屋敷を中心に三条一里三四坪の土地7反に屋敷が集結し、庄屋屋敷を囲んで240歩の堀が造成されており、また宮地を囲んで三条一里二一坪に堀一反、22坪に堂屋敷が見えている。その後文禄4年(1595)の検地帳によれば、庄屋屋敷の堀と宮地の堀とをつないで完全な環濠を造成し、その中に屋敷地を形成している。すなわち若槻環濠及びその集落は文正年代から文禄年代の間に形成されたものと考えられる。
環濠は東西に長い矩形を成し、その中に屋敷地を形成している。すなわち若槻環濠集落及びその集落は文正年代から文禄年代の間に形成されたものと考えられる。
環濠は東西に長い矩形を成し、堀幅は宮地の周濠は4間半ないし5間、その他は平均2間半ないし3間、深さは平均3尺である。
環濠内は東西に2通路、中央に南北に1通路があり、南北道の北端に唯一の出口がある。環濠内の屋敷は2・3を除いて60坪ないし90坪に地割され道路に沿って整然と並んでいる(ただ東西2通路の北側の半分は消滅し、道跡のみが残っている。)徳川初期に刊行された「和州十五郡衆徒国民郷土記」には「若槻平城」と記され、中世の平常の典型的な型を今日もなお残しているのがこの環濠及び集落の特徴である。明治期に支濠の一部を埋め、大正5年には屋敷地の掘幅を約1間半に縮めたことは惜しまれる。
※ふるさと大和郡山 歴史事典より

住所 大和郡山市若槻町
問い合わせ先 0743-52-2010(大和郡山市観光協会)



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